妹尾哲巳さん
一般プロO56の部で最高位を受賞された妹尾哲巳さん。現在、住民票は故郷である島根県松江市に置きながらも、生活の拠点は東京都大田区にあります。都内でお嬢さまのご家族と暮らし、お孫さんの子守りに精を出す日々。そんな「普通のおじいちゃん」としての顔を持つ妹尾さんの、その波乱万丈かつ音楽への愛に満ちた歩みをじっくりと伺いました。
妹尾哲巳さん
妹尾さんの幼い頃は、一般家庭の、それも男の子の家にピアノがあることはかなり稀。もちろん妹尾さんのご自宅にもピアノなどはありませんでした。しかし、小学校時代の音楽教師の影響もあって、クラシック音楽に強い興味を持ち、小学校6年生の頃には独学でピアノの練習を開始。近所の、ピアノがある女の子の家を渡り歩いては鍵盤に触れさせてもらう日々だったそうです。
中学校2年生の時、転機が訪れます。独学で『トルコ行進曲』を弾けるようになった妹尾さんに、恩師である中学校の音楽教師が本格的にピアノレッスンを始めることを勧めてくれました。紹介されたのは、島根大学の教育学部で教鞭を執っていた長岡敏夫先生。バッハ研究の権威でもあった名匠です。しかし、中学2年の夏休みに初めて門を叩いた際、投げかけられたのは「14歳からでは遅すぎる。面倒は見られないから諦めなさい」という言葉でした。普通ならそこで心が折れてしまうところですが、妹尾さんは違いました。「弟子にしてください。頑張ります」と、並々ならぬ根性を見せたのです。その熱意に打たれた長岡先生は、妹尾さんを弟子として迎え入れることに決めました。
息子の本気を感じ取った妹尾さんのお父さまも、重い腰を上げます。「あんな高いおもちゃは買えない」と渋っていたお父さまが、ついにピアノを買い与えてくれたのです。家での練習環境が整ったその年、初めて出場した島根県小中学生音楽コンクールで、妹尾さんはクレメンティのソナタを弾き、いきなり金賞を受賞。審査員を務めていた小林昭三先生からも「あの男の子はすごくいい」と絶賛され、翌年には島根県で優勝を飾るまでの急成長を遂げました。
恩師・長岡敏夫編の楽譜は没後35年過ぎても今尚、出版・販売され続ける名著
高校進学後、妹尾さんはさらなる高みを目指します。FM放送で聴いた園田高弘先生のベートーヴェンに衝撃を受け、京都市立芸術大学への進学を夢見るように。そこで師事する長岡先生に相談したところ、紹介されたのが日本のピアノ界の重鎮、横井和子先生でした。高校3年生の4月、特急やくもと新幹線を乗り継ぎ、神戸の横井先生のご自宅へ初めて足を運んだ妹尾さん。そこで待っていたのは、想像を絶する厳格なレッスンでした。
「あなたには才能がない。あなたの手ではショパンやリストは無理。京都芸大なんて絶対無理よ」初対面でそう言い放たれたという妹尾さん。しかし、横井先生は「レッスンは見てあげる」と妹尾さんを受け入れてくださいました。
そこから1年間、妹尾さんが叩き込まれたのは、徹底した基礎でした。クレメンティの『グラドゥス・アド・パルナッスム』のわずか1小節を進むのに、怒鳴られながら2時間を費やすような壮絶なレッスンを経験します。
横井先生の厳しい指導の甲斐もあってか、結局、地元の島根大学教育学部特設音楽課程へと進学することになった妹尾さん。大学では、作曲家でもある西岡光夫先生に師事しました。西岡先生は妹尾さんの音楽性を全面的に肯定し、「好きな曲を持ってきなさい」と自由に弾かせてくれたそうです。作曲の視点からピアノを捉える経験は、後の妹尾さんの大きな財産となります。大学4年生の時にはオーディションを勝ち抜き、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』のソリストに選出。オーケストラとの共演も体験しました。
高校3年の時に教わった横井和子先生とは、大学入学後も不定期で延べ5年間レッスンを受け続けましたが、ソリスト選出の報告を兼ねて横井先生のもとを訪れた際も激しい雷が落ちたそうです。「あなたのような人がこんな大曲を弾くなんて許せない」と。それでも、3楽章までしっかりレッスンしてくださいました。さらには西岡先生に電話を入れるなど、妹尾さんのことを気にかけていた様子が窺えます。
結果として、島根大学でのオーケストラ共演は大成功。国立大学で授業としてオーケストラと共演できる環境は全国的にも稀であり、妹尾さんは「島根大学で良かった」と当時を振り返ります。
48歳の時、松江市プラバホールにて。教職の傍ら、作曲家、指揮者、ピアニスト、時にジャズプレイヤーとして数々の演奏会をこなしました
大学卒業後は、音楽教諭として教壇に立った妹尾さん。最初に赴任した中学校では、吹奏楽部の指導に情熱を注ぎ、町を挙げての音楽教育に貢献。当時、ピアノの練習は細々と続けていましたが、現役教員時代はむしろ作曲や指揮、ミュージカルの制作といった活動に力を入れていました。10作品ものミュージカルを書き下ろし、松江ウィンドアンサンブルの常任指揮者を務めるなど、多才ぶりを発揮します。
キャリアの後半では、特別支援教育の分野で先駆的な役割を果たしました。昭和50年代、まだアスペルガー症候群などの概念が一般的でなかった時代から、発達障害に関する論文を執筆。その功績は全国的に知られ、各地で講演を行うなど、教育者としての多忙な日々を過ごします。一方で、心身のバランスを崩し、59歳でうつ病を発症。1年半の療養を経て、60歳で教職を退くこととなりました。
退職後、妹尾さんは再びピアノと向き合い始めます。かつての「ガチガチに教え込まれた自分」を解放し、好きなように弾いても誰にも怒られない自由を楽しむ日々。すると不思議なことに、以前は無理だと思っていた超絶技巧のリストなども指が動くようになったというから驚きです。現在は、島根と東京を行き来しながら、マイペースに1日1時間から5時間の練習を重ねているそうです。
王子ホールでのバッハコンクール本選の様子。「お坊さんですか?」と必ず聞かれるそう
ここ数年、妹尾さんは精力的にコンクールに挑戦しています。昨年度の全日本ピアノコンクールでは5位、そして今年度はついに最高位を受賞。審査員の土屋美寧子先生からは、選曲のこだわりや演奏の微細なニュアンスについて的確なコメントをいただき、それが大きな励みになったといいます。他にも三善晃ピアノコンクールでの入賞や、香港国際音楽コンクールでの活躍など、その勢いは止まりません。
「コンクールの醍醐味は、審査員によって評価が真っ二つに分かれること」と、妹尾さんは笑います。ある人には「いい音」と言われ、別の人には「音が汚い」と酷評される、その評価の揺らぎさえも楽しんでいる様子です。ミスを恐れて安全運転をするのではなく、「私はこう弾きたい」という意志を示すその独特の音楽性が、多くの聴衆と審査員の心を掴んだのかもしれません。
お孫さんと初めて山手線に乗った日の1枚
現在の妹尾さんの喜びは、もうすぐ3人目が生まれるというお孫さんたちの存在です。「高齢者ができることといったら、小さな子どもをしっかりかわいがってあげることが一番だと思います。孫たちの成長を助けつつ、その傍らでピアノも弾いていけたら幸せです」。
ご自身曰く「隠居生活」を楽しみながらも、これからもまた素敵な音楽を聴かせてくださるのを楽しみにしています。
全国大会での妹尾哲巳さんの演奏はこちら。
