矢野晶子さん
アマチュアU55の部、最優秀賞は矢野晶子さんです。慶應義塾大学を卒業後、現在はお仕事をしながら2歳のお子さまを育てるワーキングマザーとしての顔を持ちながらも、数々のコンクールでも輝かしい成績を次々と収めていらっしゃいます。そんな多忙な日常の合間を縫って、ご自宅からオンラインインタビューに応じてくださいました。
矢野晶子さん
矢野さんがピアノを始めたきっかけは、ピアノ講師を務めるお母さまの影響だったといいます。物心つく前の3歳から自然と楽器に親しむ環境にあり、愛媛県で過ごした幼少期から地元の先生のもとでレッスンを重ねてきました。大学進学を機に上京してからも、その師弟関係は途絶えることなく続いているそう。現在、矢野さんは東京に住まいを構えていますが、今でも月に一度は愛媛に帰省し、恩師のレッスンを受け続けているというから驚きです。東京でも別の先生に師事していますが、17年もの長きにわたり自分を見守ってくれている地元の先生への信頼は揺るぎないもの。帰省のたびに必ず足を運ぶ、矢野さんにとっての原点ともいえる場所なのです。
休日は息子さんとご主人と3人でお出かけ。朝ごはんを食べに行き、近所の公園で遊んで帰るのが習慣
地元の先生のレッスンの魅力について、矢野さんは「とにかく的確で、迷いがない」と語ります。その一言一言に毎回新しい気づきがあり、現在の矢野さんの演奏を形作っている要素の多くは、この先生から吸収したものだといいます。一方で、東京の先生からもまた異なる刺激を受けており、コンクールで弾く曲を中心に、多角的な視点から指導を仰いでいます。素晴らしい師に恵まれ、異なる角度からの助言を自分の中で咀嚼していくことで、矢野さんはご自身の音楽をより深いものへと昇華させているのでしょう。
これほどまでに熱心にピアノに取り組んできた矢野さんですが、意外にも音楽大学への進学は選びませんでした。小・中学生の頃は、周囲の影響もあり「自分も音大に行くのだろう」と漠然と考えていた時期もあったとのこと。しかし高校生になり、プロを目指す同年代のレベルの高さや現実を目の当たりにする中で、自らの限界を感じる瞬間もあったといいます。そんな折、周囲の大人たちからも「音楽以外のもっと広い世界を見てみてもよいのでは」という現実的なアドバイスを受け、ピアノを愛する気持ちはそのままに、一般大学への進学という道を選びます。
しかし、コンクールへの挑戦は学生時代から絶えることなく続いてきました。特にピティナ・ピアノコンペティションには幼い頃から出場し続けてきたそうです。舞台で弾くこと、そして発表会とは異なるあのコンクールならではの緊張感は何物にも代えがたく、その緊張を乗り越えて納得のいく演奏ができた時の達成感に、どこか中毒的な魅力を感じているといいます。
室内楽の勉強会の様子。
「プロのアドバイスのもと様々な楽器の音色をピアノソロにも活かせるように取り入れます」
今回演奏したチャイコフスキーの『ドゥムカ - ロシアの農村風景 Op.59』には、約1年間にわたって取り組んできました。選曲の際は、自分が弾きたい曲の中から先生のアドバイスを仰ぎ、客観的に見て自分に最もフィットするものを選ぶのだそうです。今回の曲は、冒頭の物悲しく重々しい音色と、その後に展開される躍動的な踊りのステップとの鮮やかな対比が鍵となります。矢野さんは、もともと速いパッセージを弾くことには苦手意識がなかったものの、冒頭の沈み込むような深い悲しみの表現には苦労したと振り返ります。指のどの部分で鍵盤に触れるべきか、腕の脱力はどうあるべきか、先生方から受けた細かな音の出し方の指導を、粘り強く自らの指へと落とし込んでいく作業を重ねました。
さらに、チャイコフスキーの音楽の根底にあるオーケストラ的な響きをピアノでどう表現するかという点にも、心血を注いできたそう。ピアノ一台で、弦楽器のうねり、トロンボーンやホルン、オーボエといった管楽器の色彩をいかに描き出すか。オーケストラの楽器一つひとつの音色をイメージし、それを打楽器であるピアノで引き出すのは至難の業です。移動中などの隙間時間にはチャイコフスキーの管弦楽曲などを聴き込み、オーケストレーションの妙を耳に焼き付けました。また、近年参加している室内楽の勉強会でプロのチェリストやヴィオラ奏者と共演する機会があり、弦楽器の生の響きに触れたことも、矢野さんの音色表現に大きなヒントを与えてくれたようです。
本選当日は、演奏順がトップ奏者という巡り合わせもあり、尋常ではない緊張に襲われました。納得のいかない箇所や、普段ならできていたはずのミスもあり、決して100%満足のいく演奏ではなかったといいます。しかし、「自分がこれまで積み重ねてきた努力は、そう簡単に崩れるものではないと思いました。先生の教えや自分の普段の研究の中で、いろいろ悩みながら練習してきたところは、自分でも納得のいく表現ができたところもあり、それは嬉しかったです」と矢野さん。結果として最高位である金賞を受賞しました。
冒頭でもご紹介した通り、現在の矢野さんの日常生活は多忙を極めます。お子さまを預け、働きながらの練習時間の確保は容易ではありません。日中の家事や仕事の合間ではまとまった時間が取れず、週のトータル練習時間がわずか2、3時間という週もあるそう。それでも、コンクール前には家族の多大なる協力を得て、お子さまが寝静まった深夜にスタジオを借りて一人練習に励むこともあります。また、鍵盤に向かえなくとも、少しでも時間があれば譜読みだけでもして、頭の中で曲の構想や表現をイメージする作業を行うなど、地道な努力を重ねてきました。
ピアノ仲間である足立卓也さんとの連弾。
「切磋琢磨して音楽を高め合える仲間のおかげで学びが深まります」
また最近では、ピアノを通じて得られた「仲間」の存在が、矢野さんの音楽生活をより豊かなものにしています。かつての大学のピアノサークルの先輩後輩たちとの付き合いが復活したほか、昨年の本大会同部門で最優秀賞を受賞された足立卓也さんとはたまたま地元が同じな縁で意気投合するなど、近年ピアノ仲間との交流が盛んに。切磋琢磨できる仲間が増えたことで、新たな刺激が生まれました。ライバルとして競うというよりも、「挑戦する姿を見せ合いたい」という思いが強いそう。その繋がりは、ソロ演奏にとどまらず、室内楽や新たな勉強会への参加など、矢野さんの活動の幅を広げるきっかけとなっています。
母となったことも、矢野さんの音楽表現に深みをもたらしたといいます。若い頃には持ち合わせていなかった、子どもの寝顔を見た時に湧き上がるような、無償の愛や穏やかな感情…それが演奏の中にある静謐な場面において、具体的な感情の引き出しとして機能するようになったのです。人生経験を重ねるごとに、楽譜の行間から読み取れる感情の種類が増えていくことも、音楽を続けていくことの醍醐味なのかもしれません。
お酒好きな一面も。
「ジャズバーで音楽に触れながら飲むのが特に好きです」
日頃の息抜きには、ご主人と晩酌をしつつアニメやドラマを一緒に観ることが楽しみだそう。一方で、コンクール前など練習時間を多めに確保したい時には、ご主人の協力は欠かせません。そのように家庭円満なのも、矢野さんがピアノにこれほどまで打ち込める重要な要素のひとつなのでしょう。
今後の展望として、まずこの8月には、オーケストラとの共演でグリーグのピアノ協奏曲の第1楽章を演奏することが決まっているそう。オーケストラとの共演は人生二度目とのことで、大きな挑戦です。
「どの曲に対しても、妥協せずに自分ができる一番いい演奏を届けたいと思っています。そのために日々鍛錬していきたいです。またピアノに限らずですが、常に目標を持って挑戦する姿を子どもに見せていきたいと考えています」。
そのまっすぐ直向きな生き方で、ますます深みを増した演奏を聴かせてくれることをこれからも楽しみにしています。
全国大会での矢野晶子さんの演奏はこちら。
